今回のコラムでは、最近SNSで見かけ気になっている略語のワード『ポリコレ(PC)』、つまり『ポリティカル コレクトネス(Political Correctness)』について話したいと思う。これは、人種、性別、体型、信条などの特定グループに対する偏見や差別によって、不快感や不利益を与えないようにする中立的な表現を用いる考え方で、「政治的正しさ」や「政治的妥当性」と訳される。
例えば・・・
肌色→うすだいだい、ペールオレンジ
母子健康手帳→親子手帳
看護婦→看護師
スチュワーデス→客室乗務員(CA)
カメラマン→フォトグラファー
女優→俳優
伝染病→感染症
痴呆(ちほう)症→認知症
精神分裂症→総合失調症
などと現在の呼称へと表現が変更された。
ディズニー作品の場合、SNSで特に盛り上がるタイミングは、アニメーションではなく実写版が公開された時だ。
今年3月グリム童話の『白雪姫』が公開された際には、主人公の母親役の俳優が南米コロンビアのルーツであることから、白雪姫の名前の由来が、原作の「雪のような白い肌」から「雪の日に生まれ吹雪の中を生き抜いたから」へと変更になった。また現代に即して、ただ王子を待つのではなく、自ら行動するプリンセスとして王子不在のストーリーにもなった。
他にも、2年前に公開された、アンデルセン童話の『人魚姫』を下敷きとする実写版『リトル・マーメイド』では、主人公の俳優がアフリカ系アメリカ人なので、原作にある七人姉妹が、インド洋にはインド系俳優を起用…と全世界七つの海にそれぞれの姫がいる設定に変更された。これにより、原作にもアニメ映画にも母親は登場しないにもかかわらず、父である王には7人の妻が?とあらぬ推測が生まれかねない事態となった。
実写版を約35年前のアニメーションと比べても、ディズニー映画の例にもれず、人魚姫と王子が結婚するというハッピーエンドは同じである。原作がディズニーと異なる点は、呪いを解き元の人魚の姿に戻るために、人魚姫は人間の女と結婚した王子を殺さなくてはならないが、それができない。その結果、王子への愛を貫き、自ら泡となって「風の精霊」として生まれ変わり、人々に幸せを運ぶという「自己犠牲の儚(ハカナ)さ」が重要なテーマに思えるのだが、甘々なハッピーエンドでは、原作者が伝えたい物語の本質も感じ取ることが出来なくなる。
昔話や口承文芸とはそもそも、想像や解釈により多少の尾ひれが付き様々に変容しつつ後世に語り継がれるものだが、いかなリメイクといえど、時代の変化に合わせようとしすぎるあまり、原作の意図から完全に離れ、結末まで改ざんしてしまうのは如何なものか?と思う。
一方で、国籍に言及すると、映画やドラマの吹替版では、外国人が流暢な日本語を話すのにさして違和感はなく、言葉の壁も感じないのに、ルッキズム(外見重視主義)問題に関しては根深い先入観や偏見が根底にあり、俳優の見た目が作品自体の印象を決定づけてしまうことが多々あると感じる。例えば、日本の童話である『かぐや姫』『桃太郎』『金太郎』『浦島太郎』などが日本人以外で演じられたら、我々は自然に受け止められるだろうか?『蝶々夫人』を金髪碧眼の西洋人が和装で演じても、違和感を持たずにいられるのか。古代中国が舞台の映画『キングダム』を日本人俳優が演じても問題にならないのは、同じアジア系だからだろうか・・・
アニメ『鬼滅の刃』で、『男に生まれたからには』、『長男だから我慢』という封建思想のステレオタイプなセリフに不快感をもつ人もいるようだが、舞台が大正時代の設定であれば、令和の今と違うのも至極当然だ。作品それぞれの時代背景を理解し、鑑賞する力を養うことが必要なのは言うまでもない。
ポリコレ風潮全盛の時代だからと言え、一つの価値観、現代のものの見方を個々の作品すべてに適用するのは、前時代を扱った優れた作品の評価を見損なう危険性がある。時代の制約を受けたものであっても、現代読み直す意義があり、普遍的価値を持つ名作は数知れずあるからだ。
ここまでディズニー作品について批判的側面も含め語ってきたが、私自身専門サブスクの加入もし、公開直後に必ず劇場で観るほどディズニーは大好きで、原作と比較検討するのも楽しみの一つである。だからこそ、より深く豊かに原作の世界観を体現する作品に出合いたいし、現代の尺度だけでなく、多角的に多くの人が鑑賞できるように、観客もまた進化していってほしい。描かれた当時と現代、製作者と受け手側。個々人の生きた時代を理解し、その考え方を尊重することが大切だと思う。
また、昨今話題になっている世代間ギャップは、
<8時10分前に集合とは?>
昭和から平成前期世代→7時50分
平成後期から令和世代→8時8分頃
<1000円弱とは?>
昭和から平成前期世代→約980円
平成後期から令和世代→約1020円
言葉一つが、年代によってここまで受け取り方、常識感が違うのかと、驚愕する向きも多いのではないか。指導の合間にトピックとして、生徒の考え方を聞いてみるのも一興だろう。
変化が著しい今、自分に都合のよいように自然体で解釈する若者世代に対し、積極的にコミュニケーションを図って自身の内に多様性を取り込むことで、ギャップを擦り合わせたり、常にアップデートしていく必要があると思う。