今回のコラムでは、初代ふくろう博士である亡き父が生前に集めた多くのフクロウコレクションの中から、特に厳選した一つをご紹介したい。なぜ、息子である私がコレクションを今更に紹介したいかというと、国内はもとより世界各地に旅に行った際、土産物店で購入した中に大変珍しい物があり、一生自宅に眠らせて誰の目にも触れさせないのも勿体なく、ここで紹介することにより父も喜び、供養になると思ったからである。
最近、久々に再会する友人から『亡くなった親が実はフクロウのコレクターで、処分に困っているから引き取って欲しい』という話が続くことがあるが、前置きとして、現在私はフクロウを集めてはおらず、立場的には遺品として整理している友人達と同じなのである。
そもそも、なぜ父がフクロウを集めることになったのか。佐藤製薬のサトちゃん(ゾウ)やコーワのケロちゃん(カエル)といった愛くるしい動物のキャラクターイメージが社会に浸透したのは、薬学部出身の父が大学生の頃であった。当時の太った体格から「フクロウ」というあだ名を友人から付けられ、その頃の父にとって見た目のコンプレックスから付けられたあだ名は、ネガティブな気持ちを起こさせたらしい。しかし父は悩みながらも、世界の人はフクロウに対してどんなイメージを持っているのか調べようと思った。
すると、古代ギリシャでは知恵の女神ミネルヴァの常に傍らにいる「知恵の象徴」であり、テトラドラクマという通貨の文様に採用されていること。アジアでも夜行性の習性から、暗闇でも先が見通せること。首が270度も回転出来る生態から、借金しても首が回ると「商売繁盛のシンボル」となったこと。国内においても、アイヌでは危険な熊の存在を知らせる「森の守り神」であったことなどがわかった。さらに現在でも「不苦労(ふくろう)」の語呂合わせから、縁起物として皆から愛されている存在と知り、ポジティブに転換できた。そこで、国内で初めてプロの家庭教師派遣業を起ち上げた際に、自らのニックネームを『ふくろう博士』と名乗り、講演や研修で各地を訪れる度に集めていったのが、コレクションに拍車をかけることとなった。
2万点というコレクションの多さから父は生前、ギネスブックで「世界一のフクロウコレクター」という称号にチャレンジしようと思ったこともあったらしい。しかし、土産物、日常で使うスリッパや食器類から、当学院で販売促進のために数千単位で製作した多種に及ぶオリジナルキーホルダー、フクロウマークが印刷されたクリアファイルの点数まで入れると、さすがに膨大すぎてカウントするのが面倒になり、ギネスブックの申請を諦めたという経緯がある。
生息地から考察するとアフリカワシミミズク?
さて、本題だが、ここに紹介するコレクションは、父と共に旅行したアフリカ大陸のケニアに関係がある。現地で沢山グッズを購入しようと楽しみにしていた父だったが、どの土産物店に行っても全くフクロウの影も形もない。フクロウは全世界で200種類以上いて、アフリカ大陸だけでも12種類ぐらい生息しているから身近な動物と思っていたのに、全くグッズがないのが不思議だった。そして唯一見つけることが出来たのが、マサイ村のマサイアンボセリーにあったマサイ族による『手彫りフクロウ』だけ。
迷わず、それを購入して帰国したが、当時はなぜフクロウのグッズが現地でないのか理由も分からかった。だが今はネットで何でも調べることが出来る時代。実はケニアでは、昼間にフクロウが鳴けば雨が降るとか、夜間に自宅の屋根の上で三回鳴くと、家族の誰かが重い病になるか死に至ると言い伝わる程、「不幸を招く忌み嫌う幽霊」とされているのを知り、納得した。夜に3回鳴く前、2回目の時に、急いで棒で振り払うという程に、フクロウを怖がっているマサイ族が、どんな思いでこのフクロウを手彫りしたのか、今にしてあらためて気になってしまう。
因みに古代メキシコやマヤでは、木の上でなく土を掘って巣を作る穴掘りフクロウが、地底を結ぶ「死の世界の使者」として死を連想させるイメージをもたれているが、かと言ってここでは嫌われてはいない。
上:マサイ族と一緒に硬い表情の家族写真/下:同世代と握手で交流する私
このケニア旅行は今から約50年前、私が小学校1年生の時、ムツゴロウこと故・畑正憲氏を講師に招いて、サマーキャンプとして当学院が企画したものであった。
国立公園内にあるコテージのホテルで宿泊した時のこと。夜間はネコ科の夜行性動物が近くにいるので、絶対に部屋から外に出ないようにと厳しく念を押されて、一夜を過ごした翌朝コテージの周りを確認すると、ライオンによって内臓をえぐり取られ食べられたシマウマの死骸があった。みんなが恐る恐る集まり、そこでムツゴロウさんの『肉食動物がなぜ野菜不足にならないのでしょうか?』という講義がスタートした。
『肉食動物自身は野菜を消化出来る酵素を持っていないから、草食動物が消化した野菜がある、胃や腸から食べるんですね。その次は美味しい内臓。』と説明しながら、徐(おもむろ)に自分のポケットから小型ナイフを取り出し、シマウマの腿当たりの肉を切り取り、そのまま口に運んだ。我々日本人は勿論、現地にいたスタッフさえ、『なんていう日本人なんだ!』と驚いている中で、『これが本物の馬刺しですね〜』とムツゴロウさんのほほ笑んだ姿は、強烈な記憶として私の脳裏に焼き付いている。
因みに当時、街中で外国人の姿を見たり、海外に旅行しりすることは大変珍しい時代。ましてや行先がケニアとあって、ツアー代金は、8泊9日で小学生36万、大人47万。参加したのは子ども5人ぐらいとその家族のみ。(1970年代は大卒の初任給が約8万円と1ドルが360円時代なので、おいそれとは参加出来なかったと言った方が正しかったろう)
このアフリカ旅行は、私の獣医師志望という若い頃の夢につながったきっかけでもあり、子ども時代に貴重な体験をさせてくれた両親にあらためて感謝したい。
また2023年4月に畑正憲さんは87歳で亡くなられており、父同様に当時の思い出話が供養の一環になればと願うものである。
シマウマを解剖中のムツゴロウさんと一番右で見学している私