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ふくろう博士TOP > ふくろう博士のe講座 > 第242回 社会『あの一日がなかりせば ―歴史から何を学ぶのか―(後編)』

ふくろう博士のe-講座
第242回 社会『あの一日がなかりせば ―歴史から何を学ぶのか―(後編)』
≫本 文 ≫宿 題

本文

 前編では、第一次世界大戦の引き金となった「あの日」すなわち、サラエボ事件について、 論述した。本当にサラエボ事件さえ起きなければ、第一次世界大戦も起こらなかったのか。
 後編では、この仮説をもとに、世界史の「運命」について考察したい。

(5)なぜサラエボに

 オーストリアの皇太子夫妻は不穏な情勢渦巻く最中、なぜわざわざ火中の栗を拾うがごとく、「敵地」を訪問したのであろうか。しかも、危険極まりないオープンカーによる凱旋パレード付きで……。誰しもがそう思うはずだ。
 これは歴史の謎でもあるが、おそらく夫妻には、どんな危険を冒してでもサラエボを訪問=凱旋パレードをせねばならない理由があったのだろう。
 当時オーストリアはハプスブルク家による王朝が続いていた。ハプスブルク家は1452年以来、神聖ローマ帝国皇帝をほぼ独占してきた名門中の名門である。マリア=テレジアやその娘マリーアントワネットはあまりにも有名なのでご存じの方も多かろう。
 しかし19世紀の中頃、フランツ=ヨーゼフが帝位に就くと、ハプスブルク帝国は陰りを見せ始め、不運、悲運、悪運が纏(まつ)わり始める。まずヨーゼフ帝の実弟のマクシミリアンがメキシコで銃殺され、また息子で皇太子のルドルフを心中事件で死なせてしまう。
さらに自分の妻であるエリザベート妃が旅先でテロリストに刺殺されてしまう。これもみなヨーゼフ帝の頑迷な性格や「伝統・格式」への執拗な拘(こだわ)りがその原因とされている。そして極め付きは、フランツ=フェルディナンド皇太子夫妻への「仕打ち」である。 
 心中事件で最愛の一人息子を失ったヨーゼフ帝は他に子供はおらず、やむなく甥っ子のフェルディナンドを皇太子にした。しかし、どこか面白くなかったのであろう。皇太子妃の出身が亜流ということだけで、夫妻そろっての公務参加を認めていなかった。
 こうした一連のヨーゼフ帝の頑迷さが、やがてハプスブルク朝滅亡の遠因となる。そんな折、皇太子夫妻に降ってわいたかのような「チャンス」が到来する。オーストリア国内ではないが、例の紛争の地、ボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボへの公式訪問の話が舞い込んだのである。ヨーゼフ帝も、ボスニア=ヘルツェゴビナであれば、夫妻そろっての公式訪問もよかろうと妥協したのだろう。
 この時ヨーゼフ帝の脳裏に去来したものは何か。うまくいけば、一段とオーストリアの権威は高まる。もし万一不測の事態が出来(しゅったい)したときは、一気にセルビア本国へ侵攻すればよい。たとえ夫妻が暗殺されようと……とまで考えていたかどうかは定かではないが、想像には難くない
 一方、長年日の目を見ることのなかった夫妻にしてみれば、「皇太子夫妻」の存在感を示す千載一遇のチャンスが巡ってきたと思ったに違いない。もちろん危険は百も承知である。が、ここは何としてでも行かねばならなかったのである。しかも、なんと6月28日は奇しくも夫妻の14回目の結婚記念日だったのである。
 しかし、である。一方のセルビアにとって6月28日とは、1389年オスマントルコとの「コソボの戦い」で完膚なきまでに敗北を喫した、国辱の日でもあった。この国辱の日に、結婚記念日に浮かれた憎き皇太子夫妻がやってくる・・・とセルビア人は思ったことだろう。この日をオーストリア側は意図的に選んだのではなく、偶然が重なったにすぎないのであるが。
 余談だが、歴史上このような偶然を意図的に行った人物がいる。それは先の大戦の後、GHQ総司令官となったアメリカのマッカーサーである。彼は、日本の東条英機を始め、A級戦犯7人の処刑をわざわざ1948年12月23日に行った。12月23日は先の平成天皇、当時は皇太子の誕生日であった。マッカーサーは、処刑の日をこの日にすることで、日本国民に敗戦の意味を骨身に染み込ませ、同時にアメリカの権威を身をもって示したかったのであろう。
 1914年6月28日のサラエボ。それはちょうどシェークスピアの戯曲「マクベス」に登場する魔女たちが「この世の憂さも辛さも倍増しだぞ、それ火焔はごうごう、釜はぐらぐら」(Double, double toil and trouble: Fire burn and cauldron bubble)と呪いをかけているがごとくに、この世のありとあらゆる不幸、不運、悲運、悪運がサラエボという「釜」に煮詰まっていたのである。サラエボ事件はもう人の手では制御できない程まっしぐらに、破滅に向かって突き進んでいたのである。「桜のなかりせば・・」などという甘美な仮定が成立するレベルではなく、もう魔女たちが決めた「必然」だったのである。
 それでもなお敢えて「なかりせば」と仮定するとすれば、事件直後のロシア参戦の決定であったろう。ロシアの参戦からドミノ式に、欧州の大国が同盟国側(ドイツ・オーストリア・イタリア)と協商国側(ロシア・フランス・イギリス)に分かれて第一次世界大戦になだれ込んだ経緯を考えれば、起点はここにあると言える。ロシアが参戦を控えて仲介役に回ってくれたら、あるいは大戦は避けられたのかもしれない。
 しかし当時のロシアのバルカンでの立ち位置、国内情勢やバルカン諸国の沸騰するナショナリズム(民族主義)を鑑(かんが)みれば、ロシアは参戦するしかなかったであろう。それほどまでにナショナリズムに裏打ちされたバルカン諸国、地域での対立・抗争は、何をもってしてでも抑えきれないものがあったのである。サラエボ事件というのは、それほどまでに根が深かったのである。
 その証拠に1991年のソ連崩壊とともに、これまではユーゴスラビアとして一国を形成していたセルビア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、スロベニア、クロアチア等の諸民族のあいだで内戦が勃発した。各民族間の積年の憎しみや敵愾心は激しく、近代史に残る悲惨な内戦となってしまった。冬季五輪で注目を集めた、かのサラエボの街も廃墟と化したのである。

(6)日本の参戦

 一方、日本の立場はどうであったろうか。第一次大戦は欧州が戦場であった。日本はサラエボ事件に直接的な関連は何もないし、地理的にも遠く離れている。
 しかし日本は日英同盟(1902年締結)の誼(よしみ)で、協商国側(連合国側)に立って参戦していたのである。日本にとって、これほど「おいしい」戦争はなかった。なにせ戦場は欧州大陸である。日本兵が欧州で直接戦うわけでもなく、敵が攻め込んでくるわけでもない。日本はこの時とばかり艦船や軍需品等を輸出し、莫大な利益を上げた。いわば戦争特需である。さらにドイツの中国での利権、また南洋諸島での統治権などを奪った。この火事場泥棒的な日本の「参戦」に、友軍であるはずのイギリスも不信感・不快感を抱き始める。そして太平洋を挟んで、やはり連合国側であるアメリカとも微妙なズレが出始める。そして、これが後に太平洋戦争の遠因となっていく。
 さらに極め付きが、「対華21か条要求」であった。これは中華民国政府に対し、日本の権益を拡大しようとする、きわめて露骨な「侵略的な要求」であった。大戦中、欧米諸国が戦乱で中国のことにかまけていられない隙をついて行ったのである。やることがなんともせこい!
 ちなみに筆者がこの事実を知ったのは、高校での日本史の授業時であった。この要求をした1915年当時の首相が大隈重信と知って、当時早稲田大学を志望していた筆者は大きなショックを受けた記憶がある。あの大隈公が・・・・である。
 この条約が、中国人の民族的誇りをいたく傷つけ憎しみを買ったことは間違いない。要求が承認された1915年5月9日を国恥(こくち)記念日として、この屈辱を未来永劫に忘れまいとしている。日本はサラエボ事件に学ぶどころか、その後満州事変、日華事変等を起こし、中国を侵略していったのである。だが、こうした事実を知っている日本人は果たしてどれくらいいるだろうか。ほとんどいないであろう。
 他国に対して犯した蛮行や侵略など、歴史の授業でも採り上げることもないし、マスメディアも採り上げることは滅多にない。だから、かつての大宅壮一の言を借りるまでもないが、日本人は一億総「歴史」白痴化しているのではないかと思わざるを得ない。
 今、筆者が執筆している最中(東京五輪の開始前日)に、五輪組織委員の一人が過去に「ユダヤ人大量斬殺」発言を理由に解任された。その御仁は元芸人ということであるが、熱烈なナチ信奉者とも、反ユダヤ主義者とも思えない。おそらく笑いを取る程度の軽い気持ちで、ネタに使ったのだろう。
 しかし、である。五輪組織委員でもある人物にして、この歴史音痴である。自分の発言が、たとえ深い意味はないとしても、いかに重大な国際=外交問題を引き起こすのかが全く分かっていない。この無知さ加減が、今の日本の歴史音痴、または国際=外交音痴を如実に物語っている。日本で「グローバル化」が叫ばれて久しいが、黒船来航以来168年、敗戦以降76年経っても、日本の「グローバル化」はほとんど進展していないと言っていい。

終わりに

 今年も夏になれば、また8月15日がやってくる。日本人にとっては終戦記念日であるが、世界にとっては、今からおよそ50年前の1971年8月15日を指す。
 これは、当時のアメリカ大統領だったニクソン氏が「金・ドル交換の停止」を日曜夜のテレビ演説で発表した日であった。その一か月前の7月15日の「訪中宣言」と併せて、ニクソン・ショックと言われるものである。ご記憶の方も多いのではないか。
 アメリカは対ソ戦略上、なんとソ連と同じ共産圏の中国に接近を図り、また金とドルの交換を停止することで、第二次大戦後のブレトンウッズ体制を崩壊せしめた。
 日本はこれまで1ドル360円で支えられてきた経済体制が、抜本的に見直しを迫られることになった。戦後の国際政治体制と金融政策が、根本的に転換された日であった。
 それから50年、日本はこの経済危機をどうにか乗り越え1985年のプラザ合意で、アメリカの経済危機を救済するまでに至った。今も円はドル、ユーロとともに世界の基軸通貨の一端を維持している。
 一方、米中の蜜月時代はとうの昔となり、今や中国と「新冷戦」時代に入ったかの感がある。香港を強権的に「一体化」した後、中国は次に台湾の「一体化」を公言している。これはアメリカとの軍事衝突をも辞さない構えとも取れる。中国の台湾侵攻は本当にあり得るのか。実はアメリカは、あと6年以内に侵攻はあると見ているようだ。
 日本はアメリカと緊密な軍事防衛体制を取っており、しかも台湾とは目と鼻の先に位置している。地政学的に、真っ先に戦乱に巻き込まれる可能性がある。
 「あの日、米中衝突がなかりせば・・・・」と悔恨する日など決して来ないようにと願うばかりだ。まさに今、歴史から学ぶ姿勢が問われていると言えよう。

 

参考文献:

三陸海岸大津波吉村昭(文春文庫)
第一次世界大戦はなぜはじまったのか別宮暖朗(文芸春秋新書)
世界史としての第一次世界大戦飯倉章(宝島新書)
第一次世界大戦山上正太郎(講談社学術文庫)
30の戦いからよむ世界史 下関眞興(日経ビジネス人文庫)
戦争の世界史A.L.サッチャー(祥伝社黄金文庫)
ハプスブルク帝国加藤雅彦(河出文庫)
ハプスブルク家の光芒菊地良生(ちくま文庫)
ハプスブルク一千年中丸明(新潮文庫)
ユーゴ紛争仙田善(講談社現代新書)
ウィルヘルム2世竹中亨(中公新書)
霞が関が震えた日塩田潮(講談社文庫)
20世紀アメリカの夢中野耕太郎(岩波新書)
   
武器よさらばA.ヘミングウェイ(新潮社文庫)
西部戦線異状なしレマルク(新潮社文庫)
マクベスシェークスピア(新潮社文庫)

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